【82年前】2年連続ノーヒットノーラン亀田忠のwiki経歴と球歴!徹底調査!

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皆さんは亀田忠と言う戦前のプロ野球投手をご存じですか?

82年前に、1940年、1941年と2年連続ノーヒットノーランの偉業を達成したのが、この亀田忠投手です。

今回は亀田忠投手について、wiki経歴や球歴を徹底調査してみました。

どうぞご覧ください。

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目次

亀田忠のwiki経歴


名前亀田 忠(かめだ・ただし)
生年月日1912年9月8日~1976年9月22日(64歳没)
国籍アメリカ合衆国(日系2世)
出身アメリカ合衆国ハワイ準州
身長176㎝
体重83㎏
投打右投右打
出身高校アンドリュース高校
出身大学ハワイ大学
所属チーム1938年イーグルス入団(1940年に黒鷲に変更)
背番号25

亀田忠の球歴

亀田忠の投手成績

1940年と1941年の2度ノーヒットノーランを達成。(沢村栄治投手以来2人目)
・1940年3月18日、対ライオン戦(阪急西宮球場)5‐0 (与四球9)
・1941年4月14日、対阪神戦(後楽園球場)1‐0 (与四球6)


1939年8月3日の金鯱戦では、初回に押し出しで1点を与え、合計10四死球を与えながらも、ノーヒットで9回を投げ結局2対1で勝利投手という珍記録も持っています。

亀田忠投手の特徴

スリークオーター気味の右腕から繰り出すボールは重く、武器は速球と大きく落ちるカーブ

入団した1938年春のシーズンでは登板、完投、完封、投球回、奪三振はリーグ1位。

コントロールに難があり、「三振か四球か」という豪快なピッチングでシーズン与四球の日本記録保持者(371イニング280与四球)です。

・与四死球は平均6.32個で、これは平均被安打5.89本より多い。

・通算与死球13。(1940年9個はリーグ最多)

・押し出し 通算34個。

延長戦の1試合最多奪三振:20個 1938年9月16日、対巨人戦(甲子園)延長14回

1940年のシーズンに297奪三振は1955年に金田正一が350個の記録を樹立するまでのプロ野球記録でした。

最多奪三振2回 (1938年春、1940年)
当時はタイトルなし

1安打試合10回、2安打試合9回、3安打試合10回と打たれない投手だったようですね。

登板数投球回奪三振与四球暴投自責点防御率
1938春2912187.2137143432.06
1938秋23710169.2131127482.54
1939551427371208280141273.08
1940562623456.2297273901.77
1941161135475393.11
通算4年17965781,298827898333472.41
太字はリーグ最高


亀田忠の打撃成績

1939年には打率.277、本塁打5本を記録。

所属球団のイーグルスのチーム本塁打数が20本でしたので、その1/4を亀田投手が放っていました。

長打力を生かし4番を打つ試合もあり、通常では5-7番を打っていました。

三塁手としても15試合出場されています。

試合数打数安打本塁打打点打率
1938春318420110.238
1938秋359622011.229
19397819554517.277
19407420948018.230
19411946501.109
通算4年237630149657.237


【82年前】2年連続ノーヒットノーラン亀田忠投手のwiki経歴と球歴!徹底調査!まとめ!

1941年6月日米関係悪化のため、4年足らずの活動でハワイに帰っていった亀田忠投手。

戦争がなければ、もっと日本で活躍され記録もきっと残されたのではないかと思い残念なの思いです。

2023年9月9日にオリックス・バファローズ山本由伸投手が2年連続のノーヒットノーランを達成。

それで、82年前に2年連続ノーヒットノーランを達成した亀田忠投手の名前が脚光を浴びる事になりました。

今回は、戦前に亀田忠というすごい投手がいたということをお伝えしました。

最後までご覧いただきありがとうございました。


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